最低所得保障~Basic Income~

Here are handmade paper cherry blossoms in my office.
I like seeing them gently blowing in spring wind.

コロナウイルスに感染しないように、また広げないように、というのはもちろんだが、もともと私は室内派だから室内にいる。仕事も室内で非接触でできることが多いし、したいこともたくさんある。いろいろな技術の恩恵を得て、音声や文字で人と繋がれる環境にもある。だから、外出しない=人と接触しないことの不自由はない。でもそれは好みに関係なく、私が今、環境にたまたま恵まれているからだ。

お金が入ってこない、住む場所、食べるものが確保できない人が出てくる。
お金には代えられない仕事の価値があるのに、その仕事ができない人がいる。
不安だと思う。不安は人のバランスを崩す。その苦しさは、実感として分かる部分がある。

「ベーシック・インカム(最低所得保障)」という言葉を最近良く目にするようになった。

ベーシック・インカムとは、basic(基本的)income(収入)つまり政府が性別、年齢に関わらず無条件で、すべての国民に生きるのに必要な最低限の金額を支給するという制度である。検索すれば、長所や短所、今後の展望までまとめている記事はたくさんある。
この制度については非常に関心を持っていた。といっても真剣に勉強してはいないので、以下は気ままなおしゃべりの範疇であります。

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ベーシック・インカムの長所はたくさん考えられるが、難題もまた多い。私は犯罪が最も気がかりだ。

だが「働かなくてもお金が支給される」という考えや政策もある、ということはもっと知られていいのではないかと思う。

「確実に入ってくるお金がある」ことはとても大事だ。それが何かのはずみで急に難しいものになってしまう。今回のコロナウイルスはその一つのはずみ、だ。

職種による収入の差、生きていく安心感の差がここまで出来てしまうとは。
その職業や生き方を選択したその人の責任だ、と言えるだろうか。
今回のケースは当たらないと私は思う。それぞれに真面目に働いていた人が多いわけだし、先が見えないし、努力しようにも制限が多い状況だからだ。

ベーシックインカムがあれば、収入がゼロということはなくなる。

コロナから離れても、こんなことを考えてみた。

資本主義社会が多くの国で受け入れられているのは、個人の自由という権利がある程度認められた上で、競争や欲が肯定されることで人は活動的になり、向上心が報われ、その結果全体として豊かさを享受できていると考えられているからだろう。

その豊かさは、最低ラインが守られてこそ許されるものではないだろうか。特に、これだけモノも技術も溢れている世の中では。

貧富の差があることは、自然だ。稼ぐ能力のある人は稼ぐのが自然なのだ。
ただセーフティネットもノブレスオブリージュ(財産や権力など社会的地位を有する者は、相応の社会的または道義的義務を負うというヨーロッパで生まれた道徳観)も、あるいは日本古来の情けも薄れ、不運もひっくるめて個人の責任とされ、差が拡大し固定化し、さらに拡大する世の中は私は嫌だ。

もう一つ「月々入ってくるお金がある」ことの可能性は、「ただ単にお金のためだけに」働かなくてもよくなることだ。逆説的だが、たとえば保育・介護・福祉といった仕事は、人の成長や命に直結する尊い仕事だ。なのに敬遠されたり離職率が高かったりする。その理由の一つに低賃金が挙げられる。もしベーシックインカムがあったら、資質があり、向いている人が社会的に意味・意義のある仕事を続けられるようにならないか(ベーシックインカムが導入されたらその分給料を減らす、ということになったら元も子もない。そもそも給料というか、社会的地位を高くすべきだとも思う。)。

いろいろな手当や施策はあるし、何がどううまく繋がっているのか分からないし、ベーシック・インカムがすべてを解決して楽園に導くとはさすがに思わない。それでも、ベーシック・インカムという制度に、資本主義の進化した形を期待できないものか。

なんというかなあ。多分私が考えるあれこれの大元はその人なりにしっかり生きていたら安心して暮らせるようであってほしいということなんでしょう。お金を生み出すことのみが、尊ばれすぎませんように。

参考:

Wikipediaのベーシックビジネス
コロナ経済対策が「ベーシックインカム的」であるべき理由
スペインがベーシックインカム導入との報道は誤り
7月13日追加日経ビジネス7月10日