演奏することと翻訳すること

11月17日(木)ラジオNHK第一放送の番組で、翻訳家の鴻巣友季子さんの声を始めて聞きました。新聞の書評欄に度々登場されますが、ラジオからは思いがけず明るい、楽しさを伝播させるような声が届いてきました。書評とはまた違い、知的さを失わなずして平易明瞭に「今、文学界にピアノが来てる!」ことを話されていました。

思わずメモをとったくだりがありました。

『楽譜を読み解くということは、翻訳をすることと似ている』

『「いい演奏とは何か」を考える時に「いい翻訳とは何か」がいつも思い出される』

ピアノコンクールでも、審査員によって評価は分かれる。主に「楽譜に忠実」「楽譜を自分なりの解釈」という二つのタイプ。翻訳でいえば、「原文に忠実」か「意訳」か。

いろいろに話は展開されましたが、最後にこのような言葉がありました。

『原文に忠実でも何も伝わらないということがある。解釈の固定と、忠実性は違うのではないか。人の心を打つ表現、何が人の心を打つのか。忠実性をすべて吸収しながらも、大胆な表現はあるのではないか。

そしてあらゆる表現のジャンルにおいて、高いレベルのコンクールで試されるのは、審査される側であると同時に、審査する側でもあるのだということ。これは司会のお笑い芸の方もお話しされていました。

この番組を偶然聴いたということ、才能が重なる会話を聴いたこと、考えることで誰かのより深い考えと出会えるということ、何かラジオの前でじーんとしたのであります。

♪以前考えていた、翻訳すべき「原文」と「翻訳文」、「楽譜」と「再現される音楽」の関係性♪

作曲者=作家。演奏者=翻訳者。聴衆=読者。

作曲者の意図を演奏者が理解し演奏する。楽譜にすべて表現されている。

作者の意図を翻訳者が理解し翻訳する。原文にすべて表現されている。

音符は、その音をそのリズムと強さで出せば一応は再現される。

ある外国語の単語は、それの示す対象と言葉が母国語にあれば、一応は通じる。

しかし、その音の出しよう、言葉の使いよう、いわゆる表現の仕方は、様々であろう。

情報だけではない、感情や情緒やニュアンスを伝えることの難しさ。

そして更に、最終的な評価は、「聴き手」「読み手」に委ねられるだろう。